同志社標本館(醇化館)案内

 
 

 この標本館醇化館(じゅんかかん)には約8,000点の動物標本を収蔵しています。この標本類は主として、元同志社教授故加藤延年(のぶと)先生が終生の事業として収集されたもので、“加藤コレクション”と呼ばれています。

 加藤先生は明治22年、同志社普通学校のご卒業で、明治32年から約40数年にわたり、同志社普通学校(中学校)、女子校、高等商業学校、および大学予科など全同志社において教鞭を執られ、専ら博物学(主として動物)、地理学などを担当、同志社教育に大いに貢献されました。また、他方、生来の情熱をもって内外各地の動物標本の収集に力を注がれました。将来において、同志社自然博物館の設立を目指しておられたのだと思います。これらの標本類は、島津製作所やその他標本商から購入されたものが多いのですが、学校から支出されるわずかな経費では、到底購入できないものが多く、資金集めに大変苦労されました。あるときは自費を投ぜられ、また、校友、知人、当時の在校生にも資金不足を訴えられ、その結果、先生の熾烈な情熱に感動した人々によって、高価かつ貴重な標本が多数寄贈されました。

 加藤コレクションは、先生御在職中は、今出川地区の理化学館2階に収蔵されていましたが、太平洋戦争が激しくなった際、同志社工業専門学校が開設され、理化学館が工専に使用されるようになったので、大学図書館に保管され、更に昭和25年に、当岩倉醇化館に移転され今日に至っています。

 この醇化館の建物は、昭和3年昭和天皇即位の大礼の砌、二条離宮内の臨時に造営された大響宴場で、その後同志社校商に下賜されたもので、木造150坪ほどの建物です。一時、昭和9年の室戸台風のため崩壊したものを再建したもので、標本の収蔵庫としては、まことに不適当な建物です。

 この標本館には、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類の脊椎動物を始め、各系の標本を網羅し、特に軟体動物(貝類)に至っては6,000点を超える数に上がっています。この貝類の大部分は、かつて大正時代に京都岡崎に開設されていた「平瀬介館」(館主平瀬与一郎氏)から分譲されたものです。

 剥製標本では、哺乳類が約250点、鳥類約500点、その他爬虫類、魚類などあり、液浸、乾製模型等、多数収蔵されています。しかも世界的珍種として有名なもの、絶滅の危機に瀕している国際保護鳥、特別天然記念物や天然記念物として保護されているもの、また標本として稀有の貴重な珍獣奇鳥等、多数、包蔵しており、日本では類の見ない量、及び質を誇るものであります。この世に貴重な宝庫である“加藤コレクション”を、ある専門家は高く評価し、加藤畝陰性の学識の高邁さを激賞されました。

 例えば、校友故山本唯三郎氏が大正年間に、朝鮮半島において猛獣狩りを敢行された際の獲物数点が寄贈されていますが、そのうちの「チョウセントラ」は剥製と骨格が共に揃っており、剥製も実に立派に仕上げられ、なおかつ骨格も完全に揃っています。現在では朝鮮半島及びその付近において「チョウセントラ」は絶滅しており、絶対に入手不可能な貴重かつ世界的に稀有な標本として珍重されています。その他、話題になった兵庫県豊岡地方の「コウノトリ」、北陸の「トキ」、津島の特産で既に絶滅したと伝えられる「キタタキ」、鳥島の「アホウドリ」、高山の「ライチョウ」の冬毛・秋毛・夏毛のもの、内地山岳地帯に住む「ニホンカモシカ」、奄美の「アマミノクロウサギ」、その他、特別天然記念物や天然記念物として保護されている鳥獣類の標本20点も包蔵されています。

 なお、オーストラリアの無翼鳥「キウイ」、卵生獣「カモノハシ」や「ハリモグラ」、貧歯類の「ナマケモノ」。「オオアリクイ」、「アリクイ」、「アルマジロ」、「センザンコウ」、有袋類では「カンガルー」、「コウモリネズミ」、「クスクス」等もあり、ニューギニアでは輸出禁止になっている特産の美鳥「ゴクラクチョウ」の数種、米大陸産の「ハチドリ」の数種、また古来日本列島に飛来した「ツル」類のほとんどすべての標本が揃っています。

 このように数多くの標本を収集した“加藤コレクション”を、この機会にぜひご覧ください。ただ、長年にわたる収集のため、整理・保管が行き届かず、臣繰りし移転が多々ありますが、どうかお許しください。


『付記』

加藤延年(のぶと)先生の略歴

  1. 1.慶応2年(1866)6月29日、福岡県柳河藩士の家に誕生。幼少の頃、藩儒池辺節松(明治政府参与職)、杉森憲正などに師事、柳河中学校卒業後、同志社普通学校に入学。

  2. 2.明治22年、同志社普通学校卒業後、熊本英学校、女学校の教員となり6ヶ月勤務。

  3. 3.明治28年より母校柳河中学校伝習館の教員となる。

  4. 4.明治32年4月より同志社普通学校の教諭に就任。専門として地理学、博物学を担当。かたわら女学校、高等商業、大学予科教授を兼ねて勤められる。

  5. 5.昭和10年3月、定年退職。その後引き続き同じ学校で嘱託として博物室の管理に専念された。

  6. 6.昭和20年4月20日、米軍が本土を爆撃し、当時日本帝国であった日本に危機が迫るとき、国家の前途を深く憂慮しつつ80歳の高齢をもって天国に召される。

  7. 7.教職のかたわら、島津製作所の博物顧問となり、また平瀬介館の顧問として日本貝類学界に尽くされた功績も大きい。

 先生は博学多識で、特に地理学、博物学の造詣の深渕なる何人も驚くほどであった。しかも、謙談にして崇高なる御人格と超人的な不断の努力などにより初めてこの大事業が成功し得られたものであろうと思われる。

 元同志社総長の大塚節治先生は加藤先生を評して次のごとく言っておられます。

 「先生(加藤延年)の一生は地味で平凡で世間の耳目をひくようなことはありませんでした。しかし、その学問教育に対する情熱、その職務に対する強き責任感、また清貧に甘んじ、縁の下の力持ちに安んじ、孜々として教育に精進した信念、更に謙虚にして寛容な人格、これは稀にしか見られない先生特有の偉さでありました。」と。

(同志社タイムスより)


『後記』

 以上の記事をお書きになったのは、元本校の生物担当の玉松先生です。(一部文章表現を変更しています。)

 先生は同志社大学卒業後、大正14年に旧制同志社中学に御奉職になり、昭和55年(1980)、87歳のご高齢をもって天国に召されました。

 先生は、加藤延年先生の弟子であり、御奉職中、加藤先生をお助けしてこの標本を維持され、加藤先生が御定年の昭和10年からは、戦中・戦後にかけて、この標本・整理に身をもってあたられました。さらに、戦後の混乱の中で標本類の岩倉移転の大事業と大整理をなさったことによって、この標本があまり損なわれることなく現在に至っています。

 しかし、建物も古く、岩倉という環境は標本の保存には適していません。二人の先生がこの標本を残してこられた努力と標本の保存のために、一刻も早く立派な同志社博物館が建つことを願っています。

同志社高等学校 理科(生物)

2011年2月上旬を以て標本館(醇化館)は閉鎖・解体となりました。このページはその記録です。

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